友達バロン・ルヌアールについての数行

友達バロン・ルヌアールについての数行
鈴木 

バロン・ルヌアールは東郷青児先生の友人である。今回の展覧会も先生が生前に企画したのを、三好武夫理事長や長谷川正道館長が、いろいろの困難を排し、その遺志を尊重して忠実にこれを実行に移したのである。由来において既になんとなく温かい人情を感じる展覧会である。
戦後間もなく、1950年頃、筆者は若いバロン・ルヌアールをパリのホテル・ナポレオン地下室で知り、互に絵画制作について激励し合った。やがて星霜移りかわり、二科会が開拓実行力のある東郷会長のイニシアチブで1959年にパリでサロン・ド・コンパレゾンと交換展をすることになる。日本最初の勇気ある試みであった。当時コンパレゾン幹部だった彼は、東郷会長と知り合う。その後二科会は数度に渉り、彼が書記局責任者であるサロン・ド一トンヌとパリと東京で交換展を催す。ときに来日した彼は東郷会長の案内で鹿児島桜島の噴火の煙を見る。爾来御両人の友情は東郷先生の最後まで続く。

バロン・ルヌアールの芸術については展覧会カタログにある現フランス文壇の巨匠イヨネスコの華麗な序文に尽きるが、東郷芸術と同傾向のものではない。しかも、バロン・ルヌアールの東洋のこの大画家に対する敬愛は現存し、生死東西の人種文化を越えて、今も続いている。

バロン・ルヌアールは東郷先生より割愛された秘蔵仏を所蔵しているのを筆者は知っている。それは定朝スタイルの薬師三尊ではなかったか。彼はパリの住居で、その仏像に親友東郷青児の面影を偲ぶのではなかろうか。不思議な仏縁である。

1981 年の晩夏初秋、バロン・ルヌアールは新宿安田火災海上ビル42階の東京夕景を眺めるであろう。心に通うものは畏友東郷育児のアイロニーに充ちた微笑であろうか。はるか窓下の緑樹公園の蜩の啼き声は、恐らく彼のところまではとどくまい。

因に彼の祖父ポール・ルヌアールは明治中期のベル・エポックの画人であって、そのテデッサンをパリの孫のアトリエで見る限り、平穏な時代の静かな悲しみに包まれている。筆者がフランス東部ナンシー市のアール・ヌーボ一博物館でみた明治初期の孤独な留学生、高島北海の作品に漂うデカタンス美のジャンルを思いおこす。逝ってしまった美しい時代の追憶とでも云えようか。また、ポール・ルヌアールと滞日時代を前後した不幸なフランス人画家ジョルジュ・ビゴーとの関係は明治美術史家の研究に待つ問題であろう。(画家、二科会会員)