バイオグラフィー

918年、イル=エ=ヴィレーヌ県ヴィトレに生まれ、祖父シャルル・ポール・ルヌアールの人生をなぞるように、人生の歩を進めた。国立高等装飾美術学校で学位を取得。その教授陣には、レグー、ブリアンション、デノワイエといった祖父の教え子たちが名を連ねている。

戦争から復員後、1946年から1947年にかけて開かれたサロン・デ・モワン・ドゥ・トランタン(29歳以下の作家たち)で初めて作品を発表。当時の画風は具象派で、共同創設した3誌と連帯して活動した;「A.C.E(芸術・文化・経済)」誌、カッサンドルと創設した「レビュー・オクシダン」誌、「レビュー・ドゥ・ラ・ダンス」。

バロン・ルヌアール
Portrait of バロン・ルヌアール during the second world war.

1948年、30歳当時、若手アーティストとして、ヴェネチア市賞を受賞し、またシャトー・ルールマラン財 団からも招待を受ける。戦時中は従軍パイロットとして服役したが、そこから得た“上空”からの観察眼が 正に彼の作風そのままになった。その視点は時を経るごとに益々奔放に開放されつつある。作品に描かれる正に彼の作風そのままになった。その視点は時を経るごとに益々奔放に開放されつつある。作品に描かれる年から1959年のイタリアとスペイン、1960年から1985年の間は日本を旅した)、生誕地ブルターニュの想い出などが、彼のイマジネーションの糧となっている。

プロとしての完成度の高さに裏打ちされたバロン・ルヌアールの作品は、詩的であり音楽的でもあり、時空 を超えた空想の世界へと誘う強烈な表現力を持つ。1961年にはギャラリー・シャルパンティエ(パリ高等 専門大学)、1967年にはモントリオールで行われた権威ある国際博覧会のフレンチ・パビリオンに招待されている。

バロン・ルヌアール
バロン・ルヌアール (1965)

1951年以来、サロン・ドゥ・ラ・ジュンヌ・パントル、レアリテ・ヌヴェル(新現実)、グラン・エ・ジ ュンヌ・ドージュルドゥイ、サロン・ドゥ・メなどに出品。サロン・ドートンヌでは、絵画部門の委員長を 数年間務めている。また東京二科展の名誉会員でもある。60年代以降、バロン・ルヌアールはモニュメン タル・アートの分野で活躍を続けている。

ステンドグラス、モザイク、タペストリーが創作レパートリーに加わり、多くの注文品を完成させている。
1978年以来、アレリスと共にタペストリー展を定期的に行っている:サンフランシスコ、ベルリン、シカ ゴ、ブリュッセル、ワシントン、そしてフランス国内ではとりわけグラン・パレとユネスコ。

Musée Seiji Togo, Tokyo, 1981

バロン・ルヌアールは、ヴィエイラ・ダ・シルヴァ、ソニア・ドローネ、エディ・ルグラン、ロジェ・シャ ステル、マネシエ、ポイアコフ、ジェラール・シュネデール、サンジェ、ジャック・ヴィヨン、また、アン リ・ボスコ、アルベール・カミュ、イヨネスコなどと交友関係にあり、1965年には、アンドレ・マルロー より依頼され、東京で開催されたフォービズム60周年記念の準備にも携わった。

ユネスコを中心に行われた造形芸術委員会のフランス委員の任期中(1963年ニューヨーク、1966年東京、1973年バルナ、1974年バグダッド、1975-1976年モスクワ、1977年ソフィア、1979年シュトゥットガ ルト、1983年ヘルシンキ、

Paul Renouard and バロン・ルヌアール Exhibition at the Seiji TOGO Museum with the Princess and Prince TAKAMASTU in 1981

1986年ブダペスト、1989年マドリード、1995年メキシコ)、世界各国から集 まった多くの現代アーティスト達と知り合う機会を得た。この出会いを元に、アーティストの物質的精神的 保護の活動が始まったが、この活動はアーティスト達との交流を深め、多くの友情を築きあげた。