バロン・ルヌワールの個展を迎えて / 柳 亮

バロン・ルヌワールの個展を迎えて
柳    亮

バロン・ルヌワールはアンリ・ガリ=カルルが今日の絵画の二大路線のひとつにかぞえ“想念的な抽象的自然主義”と呼んでいるフランスの抽象派の第3 グループに属する画家でル・モール、ヘイター、コルネイユ、ジャン・クーイなどとともにパリ画壇の第一線を担って精力的に活躍している中堅のひとりである。

ガリ=カルルはこのグループの芸術をとくに“想念的自然主義”と呼ぶ理由を定義して次のように言っている 一彼らは自然や外界をインスピレーションの主たる源泉とし、外界との接触による感覚上のさまざまな反応を純粋に主観的なしかたで作品の中へ顕現させようと望んでいる。彼らの感覚の記憶の頁に記録されたそれらの反応は内的な自我のふるいにかけられ純化された後精神的な個性のチャンネルによって再現されるとー。

バロン・ルヌワールはまさにその言葉通りの典型的な画家だということができる。彼は数年前に日本を訪れ、この国の美しい自然の情趣をふかく心に刻んで帰った。以来彼はその感銘の再創造を心がけ、1963年には「広重への頌」を発表して注目されたが彼の芸術する態度はこの一事に端的にしめされている。自然主義の名は冠されてもモチーフを前にしてその外観を写そうとするものではなくただ霊感の源泉をそこにもとめているだけで抽象的な言語によって当世風に綴られる彼の絵には自然の視覚的な叙述はないが、しかも複雑微妙な色彩の象徴的駆使によって彼はリリックな白己の情感を伝達し心情の微細な動きまで読みとらせる不思議な魔術を身につけている。この作家の本質のうちに抱かれている鋭敏な感受性と稀に見るキメのこまかい芸術の特質がそこに立証されていると思うのである。

彼は言うー私が好むのは描写よりも暗示だ。パリには同じように具象と非具象の裂け自の中でこの困難な実験を続けている同志がすくなくとも10人はいる。それが私には救いであるーと。

今を去る15年前ジャン・ブーレはその真卒な 制作態度に眼を止めー“この青年画家はトリックや安易さを若さの特権とせず仕事をおろそかにせぬ画家の一人だとアール紙の論評の中で折紙をつけているが、この易きにつかぬ態度の謙虚さと美しいものへのふかいいたわりこそ彼の芸術の基本をなすものであり、それはまた著名な画家兼版画家として聞えたポール・ルヌワールを祖父にもつ彼がその血統のうちに抱いている本質的な気質でもあったのである。

バロン・ルヌワールは1918年、ブルターニュのヴィトレで生れた。画技を修めたのは国立高等工芸学校であるが、卒業すると間もなく第2次世界大戦に際会動員されて軍務に服し、空軍将校として7年間北アフリカやアルザスの戦線で青春をすごした、という画家としては数寄な経歴のもち主で、この体験は彼の人間形成や芸術にとって小さからざる捨て石になっているように私には思える。

精悍で不屈の闘志そもち、エネルジックに多方面で活躍をつづけている現在の彼の精力的な活動家としての一面は、おそらくそういう特異な人生体験によって鍛えられたものであろう。また彼の芸術を特質づけている流動的な光や大気に対する人一倍鋭敏な感覚的反応も、そうした彼の内的経験と無関係ではないような気がする。

彼が作家として画壇に踏み出したのは40年代の末からで、1948年ヴェニスの市長賞を獲得して脚光を浴びたのが第一歩である。以来彼はサロン・ドオ卜ンヌ、サロン・ド・メエ、サロン・コンパレーゾン ダール・サクレ等各種のサロンやグループ展に参加し、個展もフランス及び欧米の各地で殆んど例年のように開催して今日にいたったのであって、その聞いくつかの受賞を重ね、その作はパリの近代美術館をはじめフランスやアメリカ各地の美術館に納められて、中堅作家としての確定的な地位を築いてきたのである。

現在彼はサロン・ドオトンヌの芸術委員に上げられ戦後ようやく老化現象の目につきはじめた由緒あるこのサロンの体質改善に重要なひと役を買い、若い世代のために道を拓いたり、ユネスコに本部をもつ国際造形美術協会 (I.A.P.A) のフランス部の書記長として、国際的な活動に任じたり、その他ステンドグラスの制作には早くから独自の装飾的手腕を振い、現にナンシイの国立病院と国際競技場を飾る作品の制作を続行中と聞いている。

バロン・ルヌワールの来日は今回は二度目で、1960年にニ科会と共催で東京で催されサロン・コンパレーゾンのパリ賞の審査のため日本を訪れたのが最初である。その時私は初めて面識を得たのであるが、翌年の61年には、私がパリを訪れる廻り合わせとなり、アルバレッ卜街のアトリエへ招かれて手厚い歓待を受け、親しくその仕事ぶりも見せてもらった。その時も仕事が思うように捗どらぬので出来上った作がなく貴方の腹蔵のない意見を聞けないのが残念だと言いながら、制作中の数点を陳べて見せ、意にみたぬ個所を自分で指摘し制作上の悩みをいろいろと卒直に語ってくれた。私はその良心的な態度に多大の共感をおぼえ、この作家の前途に残された未顕の可能性を信じて辞去したのであるが、前述の易きにつかぬという印象はその時私の受けとった実感であった。

こんどの来日はフォーブ60年展のフランス側を代表し事務総長として5年ぶりにふたたび日本の土を踏むことになったもので、フォーブ展がかくもみごとな充実した内容のものとなり、しかも地元のフランスに優先して日本でまず開催できたーパリではそのため来年1 月までもちこされることになったがーそのかげには事務総長としての彼の献身的尽瘁があった賜ものだと閣いている。言うまでもなく、彼の底知れぬ好意はすべて日本に対する愛情につながるものだが、この機会に平素のじぶんの仕事も熱愛する日本の皆さんに見てもらいたいという彼の希望が実現し、こうして個展開催の運びになったことを私は誰れにもましてこころから喜び、誌して祝福の言葉とする次第である。